八事教会では、日曜の午後、月に3回学びのときを持っています。
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第2日曜 教会学校教師と有志による読書会
第3日曜 男子会・姉妹会・青年会の各会例会
第4日曜 成人学級

暑さが増してくると午後集中力を維持するのはなかなか大変ではありますが、「基本的に開始後約1時間で終了」と終わりがはっきりしているので学びのリズムが整うようになって参りました(^-^)

今回は、6月26日の成人学級で行った「カルヴァンの教会論」(渡辺信夫著)の学びと7月10日の教会学校教師と有志による読書会「旧約聖書を学ぶ人のために」(並木浩一/荒井章三編)の学びについて報告いたします。

 

成人学級「カルヴァンの教会論」(渡辺信夫著)の学び

「カルヴァンの教会論」の学びは残すところあと1回となりましたが、今回は“第17章教育する共同体”を学びました。

成人学級では毎回12~15名の参加者が与えられていますが、昼食後の一番眠たくなる時間の学びは、肉体的に容易なことではありません。夏場は特にそうです。

ですから、毎回“なぜこの学びをするのか?”という位置づけをはっきりさせて学びに取り組むことがとても大切だと思っています。

今回は、今後さまざまな学びをする上でも“なぜわたしたちは学びをするのか?”の答えになる大変良き学びができました。

今回学んだ箇所には、次のように記されています。

すべての世代は、その前の世代の庇護と掣肘のもとに置かれるだけではなく、直接に永遠なる言葉の支配のもとに立つ。かくてこそ、信仰者たり得るのである。教育は万能ではない。教育にたずさわる者は、よくその分を弁えなければならないのである。しかし、一定の限界のうちにおいてであるが、教育は教会において、限度一杯の使命を果たすことを忘れてはならない。もし教育が教会において充分に機能しないならば、福音的信仰は次代においては変質し、教会は荒廃する。
(渡辺信夫、「カルヴァンの教会論」、一麦出版社、2009年、251ページ)

また、カルヴァンが教育によって信仰への道をつけようし、「ことば」の教育を重んじたことも学びました。

教会という共同体に連なる者として、次世代に“荒廃した教会を遺さないため”に共に学びをすることの大切さを改めて思わされました。

また、わたしたちの教会には、図書室の一角に児童書コーナー「こひつじ文庫」があります。
1,800冊を超える教会図書のうち、児童書が800冊を占めますが、今回の学びを通して、教会における「こひつじ文庫」の位置づけを再確認することができました。
より“信仰の道につながる”ことを意識し、子供たちのために「こひつじ文庫」をふさわしく用いることができるようにと祈り願っています。

 

教会学校教師と有志による読書会「旧約聖書を学ぶ人のために」(並木浩一/荒井章三編)の学び

7月10日の教会学校教師と有志による読書会は「旧約聖書を学ぶ人のために」“第2章契約と法”の学びをしました。

6月26日より「聖書の学びと祈りの会」で申命記の学びが始まったことと、教会学校の礼拝で出エジプト記の学びをし、また合同分級で鏡を使ったしかけ絵本「モーセものがたり」作りをしていることもあり、特に1.律法の威信とモーセと2.十戒とその精神の学びが益となりました。

1.律法の威信とモーセには次のように書かれています。

モーセは神ヤハウェに選び出され、宗教的指導者としての重責を担っていたにもかかわらず、最後まで言葉の仲保者であることにとどまり続けた。しかも、神から与えられた律法を語る場合も、彼がそれを石に刻んで書けという場合も、モーセの擬似神格化すら避けられている。彼の墓地は不明とされている。死後も、モーセは教祖やいわゆるグル(導師)にはならなかったし、彼のための聖墳墓は構築されなかったのである。
(鈴木佳秀、「旧約聖書を学ぶ人のために」、世界思想社、2012年、242-243ページ)

ドラマチックな展開が続くモーセ物語は、子供たちに語るとき、どうしてもモーセという人やモーセの働きにスポットを当てて話してしまいがちですが、仲保者モーセを通して神の意志がどう示されたかに主眼を置いて語るべきことを今一度確認することができました。

また、2.十戒とその精神には次のように書かれています。

十戒の多くは「あなたは・・・してはならない」という様式で語られる。ヘブライ語の原意を酌むならば「あなたが・・・することはありえないのだ」という意味に近い。十の戒めは絶対的な服従命令ではない。ヘブライ語には否定命令形がそもそも存在しないので、(否定辞と未完了形動詞でもって)禁止命令として表現される。これは聞き手(読み手)の自発的な応答を求めた文体である。ある禁止すべき事柄を限定し、そこに一線を画し、それを越えない限りは、他のすべてが許されており、自由に、また自主的に生きうるという拡がりを持つものなのである。これが旧約聖書の律法の一大特徴である教示としての特質にほかならない。
(鈴木佳秀、「旧約聖書を学ぶ人のために」、世界思想社、2012年、246-247ページ)

子供たちに十戒を教える際、倫理的なアプローチをしたり、ルールを破ってはいけないことに力点を置いた話をしてしまいそうになりますが、十戒前文の“わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。”が大切なのであり、神の救いに与り、恵みに入れられた者として、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」=「あなたには、わたしをおいてほかに神があることはありえないのだ。」というように十戒をすべて読むとき、実に福音に満ちた内容であることに気づかされました。これからは、このことを子供たちに十分に語りたいと思います。

成人学級や教会学校教師と有志による読書会で行う学びは、信仰生活や教会の奉仕にすぐ活かせる場合もありますが、そうでない場合もあります。
けれども、継続して学びをする中で思考訓練ができ、聖書をどう読み、どう聞くべきかがどんどん分かるようになります。
その意味で、“必ず神様が目と心を開いてくださる”との祈りと信仰を持って、粘り強く学びを続ける大切さを強く感じています(^-^)