愛知県名古屋市昭和区のプロテスタントのキリスト教会

牧師紹介

牧 師 鳥井 一夫

鳥井一夫

私は、1950年、神戸で生まれ、50年間神戸で過ごしてきた人間です。そして、八事教会の牧師になるまで関西で活動していました。キリスト教は、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つなのです。」(ガラテヤ3:28)という信仰に立つ、グローバル宗教です。だから、名古屋にある八事教会に来ても、この信仰によって、名古屋の人々とも、他の地方からやってきた人とも、自由に喜びをもって交わりを楽しむことができる人間です。神戸改革派神学校卒業後、恵泉教会牧師、奈良教会牧師、西部中会巡回教師を経て、2005年に八事教会の牧師となりました。宜しくお願いします。私がどういう人間で、どういう信仰者としての歩みをしてきたか、以下に紹介させていただきます。

1.信仰への導きをどのようにして受けたか

私は、仏教の家庭で育ちました。家族の中で最初にキリスト教信仰に導かれた長男を通して中学2年生の時、神戸にある日本キリスト改革派板宿教会に導かれ、高校1年生の時に、同教会で洗礼を受けました。そして、牧師になるまで、同教会で信徒としての歩みを続けました。教会へ行くきっかけは、生徒会長をしていた友人が突然学校に来なくなり、生きる意味について考えるようになったことです。中学生の間は、教会学校の礼拝と分級に出席するだけで、クリスチャンになりたいと思って教会に行っていたわけではありませんが、教会学校でもらう聖句カードを通して、聖書への興味を与えられ、それなりに自分はクリスチャンだと考えて歩んでいました。高校1年生の時、洗礼が何であるかも理解せず、受洗準備会に何回か出る内に、「これはクリスチャンとして正式に歩むための学びである」ということに気づきました。自分の人間性について自信が持てませんでしたので、果たして、一生クリスチャンとして真面目にやっていけるのか、そのことがすごく心配になり、逃げ出したい気持ちになりましたが、それも言い出せずに洗礼を受けた、自覚的な信仰の乏しい信仰者としての始まりでありました。板宿教会で洗礼を受けた人は、記念として『ウエストミンスター信仰問答書』がプレゼントされます。その表紙の裏に、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」(ヨハネ15:16)という聖句が記されていました。その言葉を読んで、わたしがキリスト者になったのは、自分がイエス様を選んだのではなく、イエス様にあって、神さまから選ばれたから、信仰をもつように導かれたのだ、ということを理解しました。それが私のクリスチャンとしての始まりです。

2.牧師として大切にしている考え

聖書は、神の前に生きる人間として聞くべき神の言葉です。人間は神のかたちに似せて創造された、神と人格的な交わりに生きる宗教的な存在であることを明らかにしています。私の導かれた改革派教会は、神中心、聖書中心の教会です。今、その教会の牧師として、聖書の言葉を説き明かす働きをしています。改革派教会でなくても、キリスト教会であればどの教派も聖書主義を標榜しているはずです。しかし、聖書の全体をきちんと教えるのは、改革派信仰の特質であります。神学校を卒業して、牧師となるにふさわしい知識をもっているかを調べる教師試験を受けました。その試験の準備をして気づかされたことは、自分は聖書の全体から信仰の問題を考えることを大切にしている教派で教えられ、神学の学びをしてきたのに、その全体の教えを、聖書自体からそれほど学んでいなかったということです。愕然とする思いをしながら、教師試験を受けました。教師試験には合格しましたが、この経験は、牧師として歩む上で大きな課題となりました。特に、旧約聖書神学と旧約聖書時代史に関する学びを自分なりに取り組むという程度ですが、行ってきました。日曜日の礼拝説教は、新約聖書を中心にしていますが、水曜日の『聖書の学びと祈りの会』は、プリントを用いて旧約聖書の講解を行なっています。このスタイルは、最初から変わっていません。旧約聖書を土台として新約聖書を読まないと、聖書の教えの意味の深さ、広さ、高さを理解することができません。キリスト教信仰にとって、聖書というのは、旧約聖書と新約聖書の両方をもって、はじめて、そう呼べるのです。聖書には、わたしたちの信仰がどうあるべきかが教えられていますが、その信仰に基づき、その時代の中にあってどう生きるべきかが、常に現代的な意味を持つ言葉として記されています。聖書はそのように読むことを私たちに求めている書であるということができます。教会は色んな活動をしていますが、教会は、聖書の教えに基づき、私たち人間が、世にあって如何に生き、何を望みとして生きるべきかを教えることを、キリストから委託された共同体であります。その共同体の中で、キリスト教信仰は、健全な姿で伝えられ、育まれて行くのです。牧師の役割は、その導きを、神の言葉である聖書を、人に解説して行く業であります。私は、そのような考えの下に、八事教会の牧師として、教会に仕えています。

3.信仰とは神に委ねて生きること

中学2年生のときに、私は人生を変える二つの体験をしました。それは、信仰への道と水泳との出会いです。泳ぐために一番大切なのは呼吸法です。泳げない人は、息を吸うことばかり考えますが、水の中では、地上とは同じように呼吸はできません。人間の比重は、水中では1前後を絶えず変化しています。そして、水中では陸上よりも4倍遅い動作しかできません。そうした特性を理解し、体の力を抜き、水の中に体を委ね、先ず息を思いっきり吐き出し、その反動で息を吸うことができるのです。それを4,5回続けると「泳げている」という実感を持つことができるようになります。あとは、我慢して辛抱強く、どんな下手な泳ぎ方でも、呼吸を続けて行けば、泳ぐ距離を延ばし泳ぐことができるようになります。
この水泳習得法は、聖書の教えるキリスト教信仰とよく似ているのです。信仰は、自分の力で歩むのではなく、神の恵みの導きの中に、自分の全存在を委ねる行為です。そうすると、神がいかに恵み深い方であるか、イエス様がどれほど大きな私の罪を背負ってくださって、罪赦された者として、わたしという人間を取り扱ってくださっているか、が理解できるようになります。古い自分を全部吐き出し、神から与えられる恵みを吸い込み、その力で生きる。これが信仰理解で一番大切なことです。私は、そのような気負わないキリスト教信仰の道を、多くの人に味わって頂きたいと願っています。気負わないで、聖書の言葉を共に聞き、神さまの導きに委ねながら、喜び多い人生、信仰の歩みを、あなたにして頂きたく思います。

趣味

DSC_0921現在のわたしの趣味は、水泳ではなく、登山です。年1回、夏休みの時に、北アルプス登山に行き、山の写真を撮って、教会のホームページの「今月の聖書の言葉」に写真を載せています。

 

 

 

旧約聖書講解/キリスト教講座

「鳥井一夫 聖書の部屋」にて、聖書の学びと祈りの会で行った旧約聖書講解と2005年9月から2008年11月まで当教会で行ったキリスト教講座の講演原稿を掲載していますので、どうぞご覧ください。

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