真の命を豊かに生きるために聖書の言葉を共に聞きませんか

人は、生きる時代、生まれる国、性別、親を自分で選ぶこともできません。その現実の中で、人は、考え、悩み、多くの労苦を経験しながら生きていかなければなりません。そして、色んな人と出会い、色んな人間関係、社会生活を経験します。それを当たり前のこととして受け入れている人もいれば、そう思わなくても、そう受け止めないと仕方ないと考えて、日々を生きている人もいます。わたしたちは一回限りのわたしにしかない個別の命を、そのような現実の中で生きています。人は、その中で、生きることの意味について考えざるを得ない現実に直面することが突如として起こることがあります。わたくしは、中学2年生の時に初めてキリスト教会に行きました。生徒会長をしていた友人が突然学校に来なくなったことがきっかけです。長兄がすでにキリスト教信仰を与えられていましたので、その関係の教会に導かれました。教会(日曜)学校で、毎週、聖句が書かれた豆カードをもらい、自分で聖書を読みたいと思い、文庫版の『新約聖書』を購入したのが聖書との出会いです。「豆カード」の聖句を頼りに、その前後の聖書の箇所を読む形で、聖書の世界に少しずつ入っていきました。

それで生きる意味をすぐに理解できるようになったわけでありません。友人の「不登校」の問題が解決したわけでもありません。教会には、その後も続けて通い、自分で「『旧約聖書』と『新約聖書』」が一冊になった1735頁ある聖書を購入し、高校1年生の時に洗礼も受けました。キリスト教でいう聖書とは、「旧約」と「新約」を合わせたものです。「新約」とは、「新しい契約」を意味し、「旧約」とは、「古い契約」のことで、互いを排除せず、それぞれ「約束」と「成就」という関係にあり、聖書は「神の言葉」としての権威あるもので、すべての時代、すべての人間にとっての「命の書」として意味づけられていることを教会で学びました。

わたしたち日本人にとって初めて手にする聖書は、日本語に翻訳されたものです。その翻訳の元になる旧約聖書はヘブル語とアラム語で書かれていますが、その原本は失われてありません。写本だけが残っています。ユダヤ人は、「書物の民」として、聖書を間違いのないように伝達するために、正確に写本にして残しました。ユダヤ人にとって、バビロン捕囚(紀元前6世紀末)の体験は、「書物の民」としての歩みに大きな転機となりました。多くのユダヤ人が離散(ディアスポラ)の民となり、先祖代々の言葉に疎くなったヘレニズム世界のディアスポラ・ユダヤ人の礼拝の必要上成立したのがギリシャ語に翻訳された「七十人訳聖書」であると理解されています。そして、紀元4世紀にヒエロニムスがヘブライ語の聖書をラテン語に翻訳しました。それは、カトリック教会が1500年以上もの間、唯一の「公式な」聖書と認め使ってきたもので、「ウルガタ訳聖書」と呼ばれています。

ヒエロニムスは、イザヤ書の訳文に序文をつけ、「聖書を知らないことはキリストを知らないこと」という句を残しました。この句には「聖書にはキリストのことが書いているのだから、キリストを探してください、キリストがどういう方か、それをしっかり読み取ってください」というメッセージが含まれています。聖書が「神の言葉」だというとき、それはキリストを意味するということです。新約聖書の使徒言行録8章に、エチオピアの女王カンダケに仕える宦官がイザヤ書53章を朗読しているのを聞いたフィリポは「読んでいることがわかりますか」と尋ねたところ、宦官は、「手引きしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう」と答えましたので、フィリポは聖書のこの箇所から説き起こして、イエスについての福音を告げ知らせた、とあります。

今日、キリスト教会が存在している意味は、このフィリポがおこなったことと同じ役割を果たすことです。イエス・キリストの福音とは、「最も大切なこととして私(パウロ)も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと…」(Ⅰコリント15:3-6)、という内容です。聖書がわたしたちの生き方とどうかかわるものなのか、その意味を理解するには、なお多くのことを語る必要がありますが、それがあなた自身の命の問題と切り離せない実に深いかかわりのある問題であることを、これらの言葉は明らかにしています。それをより深く、より豊かに理解していただきたいと祈り願っています。そのために、あなたにも、わたしたちの教会の礼拝に出席し、御言葉の解き明かしを共に聞いていただきたく思います。ご来会をお待ちしています。(八事教会牧師 鳥井一夫)

伝道礼拝

初めての方、教会をお探しの方に向けた礼拝です。

日時 11月10日(日)午前10時30分-正午
聖書 マタイによる福音書5章3節~10節
説教題 「キリスト教がわかる」とは?
説教者  野島邦夫先生(日本キリスト改革派教会国立聖書教会牧師)

講演会

日本聖書協会は、カトリックとプロテスタントが協力して「聖書 新共同訳」を1987年に発行しました。その次世代となる「聖書 聖書協会共同訳」の翻訳は、2018年12月に出版されました。

日本聖書協会は、明治元訳(1887年)以来約30年おきに聖書を改訂、あるいは新たに翻訳してきました。30年たつと、言語が変化すること、聖書学、写本研究、考古学が発達し、新たな知見が多く加わることがその理由で、「聖書 聖書協会共同訳」も、そのような変化に対応しています。その事情などについて、「聖書 聖書協会共同訳」検討委員会委員をされた野島邦夫先生が解説してくださいます。

日時 11月10日(日)午後1時30分-3時
講演題 新しい日本語訳聖書の魅力-『聖書 聖書協会共同訳の特徴』
講師 野島邦夫先生(日本キリスト改革派教会国立聖書教会牧師)
講師プロフィール 1952年生まれ。日本キリスト改革派教会立神戸改革派神学校卒。同教派の関西の幾つかの教会で牧師として働いた後、ドイツ・テュービンゲン大学神学部およびヴッパータール神学大学で神学の研鑚を積み、神学博士号を取得。2010年から国立聖書教会牧師。
「聖書 聖書協会共同訳」検討委員会(聖書協会外の超教派のアドバイザー機関、各教派から1名ずつ派遣される委員からなる)委員の一人として、翻訳者や編集委員会では解決できない問題を検討する役割を担った。

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