わたしたちの教会の活動年度は、毎年1月1日から12月31日までです。教会が最も大切にしている集会の主日礼拝は毎週日曜日の朝行っていますが、日曜午後の集会については、毎年2月から10月までが実質的な活動期間となっています。(年初は定期会員総会に向けての準備、年の後半はクリスマスに向けての準備があるためです。)

改革派教会では、「教育的伝道」を重んじていますので、八事教会でも日曜午後は「教会学校」として、教会学校教師と有志による読書会(第3日曜)、成人学級(第4日曜)を行い、聖書そのものや聖書理解を深める学び、キリストの体である教会を共に建て上げるための学びをしています。

昨年までは、男子会・姉妹会・青年会といった属性別の定例会も教会学校の一つとして毎月行っていましたが、教会論的な位置付けから廃止をしましたので、2018年から第2日曜の午後は、自由な交わりを持つときとなりました。

日本キリスト改革派八事教会「聖書の学びと祈りの会」 1階集会室

そのようなわけで、第2~第4日曜の主日礼拝(毎週日曜日午前10時30分-正午)後は、礼拝出席者の内20名程度が愛餐のときを持っています。子供から高齢者までが日当たりが良く明るい1階集会室に集い、共に昼食を取り、落ち着いてゆっくりと歓談し、豊かなひとときを過ごしています。単なるランチタイムではなく「愛餐の交わり」として重んじているのは、個々に食事を取るのではなく、揃って食前の祈りをし、礼拝で味わった恵みを心に留めて共に感謝の食事をするからです。八事教会の集会は全て開かれていますので、礼拝に出席される方には愛餐会や午後の集会への参加の勧めがなされますが、これらは決して強制されるものではありませんので、全てが自由参加です。

  • 2月18日の午後は、教会学校教師と有志による読書会において、「千年と一日」(ヴェスターマン著)よりイスラエルの民を約束の地に先導される神とその仲保者モーセについて学びました。特に考えさせられたのは次の一文です。

旧約聖書の召命物語の中で人に与えられるこの召しについて聖書が語っていることは、今日の私たちの世界にとっても、非常に重要である。このような召命は二つの方向を指示している。それは幾万という人々の中の一個人の生と、召しを与えるものとを結びつける。この召しのリアリティーは、いかなる神秘的体験の中にも(これらの多くの場合召しの代用品である)あるいは大いなることをなすべく召されていると単純に意識していることの中にも示されずに、一群の人々の道を決定する決断や行為の中におのずと明らかにされる。それらの行為にとって決定的なことは、最終的権威として自己の栄光やエゴからではなくて、みずからが絶対であり、最終的権威であるものの召命によってなしているという事実である。同時に召しは別な方向をもさしている。そして召された人の生活に対して連続と調和と方向を与えている。召しを受けた人物の存在に対して意味を与えるのは、なされた仕事の大きさや外観ではなくて、その召しを受けいれる用意であり、召されたことに対する彼の忠実さであり、その召しに留まることである。(ヴェスターマン『千年と一日』聖文舎,1971年,p.112)

  • 2月25日の午後は、成人学級において、「教会規定第一部 政治規準の学び」(宮田計著)の学びをしました。成人学級では、昨年1月に「カルヴァンの教会論」(渡辺信夫著)の学びを終え、2月から、「教会規定第一部 政治規準の学び」をテキストに用いて学びをしています。これらのテキストを用いているのは、長期的な視点をもって、教会設立に向けての教会の取り組みに向けての学びをするためです。これらの学びを続ける中で、牧師とともに、教会の政治と訓練を行い、霊的状態を見守るための長老が与えられることを祈り願っています。本書もようやく6割ほどを読み進めましたが、25日は学びを通して、教会におけるガバナンスはどこまでも聖書の規範性に立ち、教会をキリストの体として建て上げること、聖書への密着は単なる教理的問題ではなく、どこまでもキリストに学び倣うことであると確認しました。

八事教会の日曜午後の学びは、基本的に1時間の範囲で行っています。心は燃えていても体は弱いものです。昼食後一番眠気を覚える時間帯ではありますが、1時間だからこそ老いも若きも共に学びに参加できる喜びがあります。日々の衰えや心身の弱さを覚えつつ、全てを神の恵みに委ねて共に祈り、学び、交わることは、参加する一人一人が実に大きな慰めと励ましを得ています。