2016年2月の聖書の言葉
神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
(詩編51:19)
焼岳と大正池
この聖書の言葉は、神礼拝の本質が何であるかを教えています。礼拝の形式は、神が指定されることに基づくという理解は、旧約時代も新約時代も変わらずありました。しかし、たとえその形式に完全に合致していても、神の前に打ち砕かれた心で礼拝するのでなければ、神はその礼拝を喜ばれません。打ち砕かれた心とは、、神の御前での信仰のあり方をいいますが、神の言葉に仕える預言者や使徒たちを受け入れることと関係させて述べられている主の言葉から(マタイ10:40―42)、理解することが大切です。それは、預言者や使徒を遣わされた神への信仰の問題と関わる問題です。神礼拝において大切なのは、神の言葉を神の言葉としてとりつぐ説教がなされ、それに打ち砕かれた心で聞くことです。説教をする職務に就く者は、どこまでも神の言葉の仲介者として、その任務に忠実でなければなりません。語る者も聞く者も神の前に胸を打ちたたいて己を死なせ、神の言葉が立ちあがるように、神を崇め、神に聞く。これが打ち砕かれた霊、という言葉の意味です。