2018年7月の聖書の言葉
深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
(詩編130編2節)
この詩人は、神なしに人間は失われた存在であることを深く自覚しています。自分の罪によって壊した橋を再びかけることができるのは神のみであり、神から遠く引き離されている自分の姿を、太陽の光も届かない深い海の淵の望みなき状態として受け止めています。だから、主が身を屈めて彼の嘆きを聞き届けてくださるのでなければ、彼はなお望みなき深淵の中でその罪に圧倒され苦しみ続けねばならないのです。しかし、その罪を罰し懲らしめを与えたのは主ですから、「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう」(3節)と問い掛けます。この問いの背後には、罪の威力と、罪に陥った人間の無力に対する徹底した認識があります。しかし、その認識は、神の恵みの偉大さに対して目を開くことにもなります。神の赦しがなければ、自分が存在しえないこと、望みがないことを知り、ただ主の恩寵にすがること以外になにもないと、彼は信仰において捉えるのです。そして、その様な自分を神は赦す…ことができると信じ畏れつつ神の赦しを待ち望み、「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人々はあなたを畏れ敬うのです」(4節)と祈ります。人間にとって、生きることにおいて第一に重要なことは、神と関わって生きていくことであるから、罪の赦しは宗教的良心を鈍らせ、眠らせてしまうものではなく、むしろ赦しは、人間には捉えがたい神の偉大さを啓示するものとなることを告白します。だから、この祈りは、神の本当の偉大さは人間が自らの罪を意識し、罪を自覚させられるところから始まること知らされた信仰者の祈りです。