2019年5月の聖書の言葉
わたしは生きている、と主なる神は言われる。 わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。 イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
(エゼキエル書33章11節)
北穂高岳と長谷川ピーク(2010年8月18日南岳獅子鼻頭より撮影)
ここで語られているのは、どん底に佇む者に向けられた「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」という神の招きの呼びかけです。悔い改めとは、単なる悔恨、自己改革への方向転換ではありません。命を与え奪うことのできる命の主である神に立ち帰ることです。エゼキエルは、捕囚の民に向かって、祖国イスラエルの滅亡、都エルサレムと神殿が破壊される大破局の日(前587年)まで、主によって立てられた預言者です。妻の死に際し、嘆くことも、涙を流すことも、死者の葬りのために喪に服することも禁じられました(24:15)。破局の悲しみを妻の死の中で見、捕囚の地にある者と連帯して生きる預言者として、その深い苦悩を心静かに受け入れました。破局の日まで、悔い改めない民に、破局を明らかにし、神の口としての役割を果たしました。しかし、エルサレムの滅亡後は、一転して、神の慰め、神の救いを告げました(24:25-27)。エルサレムの滅亡という大破局の知らせを聞いた捕囚の民は、絶望の淵に呆然と助かる見込みのない死に至る者のように、ケバル川のほとりニップルに立っていました。その打撃を味わって、神に対して犯してきた罪の重大さに気づかされ、「我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか」(10節)と嘆き悲しむ捕囚の民に示されたのは、「わたしは生きている」というメッセージです。神の声に聞くことを第一としない信仰の歩みは、神の目から見れば「悪人」の歩みです。神の望まれるのは、「その道から立ち帰って生きる」ことです。「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」と神は呼びかけられます。帰ってきた放蕩息子を受け入れる父親のように(ルカ15:11-24)、ご自分のところに立ち帰る者を神は受け入れられるのです。